過去、現在、そして未来へ。
食の神髄を探求し、京料理は歩み続ける。
京都料理組合の始まりは、今から275年前に結成された「魚鳥講」という組織であるといわれています。「魚鳥講」の唯一の手がかりは、左京区の金戒光明寺の境内にある銅製の地蔵尊で、明治44年に建てられました。その台石の碑文によると、魚鳥講は江戸時代の延亭2年(1745年)に作られ、明治維新後「三店(さんたな)講」と改名、それを「魚鳥商」に改めた記念に建てた、とあります。三店とは、亀山法皇の命により京都に立った、錦の店(にしきのたな・・・中京区錦通)、上の店(かみのたな・・・上京区椹木町通)、下の店(しものたな・・・下京区魚ノ棚通、のちに東山区問屋町通)の3つの市のこと。日本で最初に開かれた市場です。
江戸時代には、三棚それぞれに同業者が集いコミュニティーができました。三棚同士の交流も生まれ情報交換と親睦を深める目的で組合を作ろうということで、魚鳥講が生まれました。生ものを扱う職業ということで、魚や鳥を供養する施餓鬼会も始まり、現在も毎年秋の彼岸に行っています。
施餓鬼会を含め京都料理組合の三大年中行事は、10月22日の時代祭での神饌奉献と、12月に行われる京料理展示大会。まず時代祭ですが、古来、日本の祭りは神に奉ずるもので、神饌を供えるのが常です。京都料理組合は「神饌講社」を組織し時代祭の行列に参加、京都御所の行在所(あんざいしょ)といわれる場所に魚、塩、餅、鯛、野菜、果物、山の物、海の物など十数種類の食べ物を供えます。神と対面する料理人は身を清めて当日に臨みます。
京料理展示大会の第1回は明治19年でした。東京遷都で衰退の危機にあった京都の経済・文化、それに京料理をなんとか盛り立てたいという思いだったのでしょう。技を盗まれるのを避けるため決して公にしなかった各料理屋の料理が、一同に会したのは画期的なことでした。戦争を挟んで中断し、復活したのは中央市場にようやく材料が出揃った昭和25年。料理の展示だけではなく式包丁や名産品販売などのイベントが併催されるようになりました。やがて京都料理組合から、料理の研究・勉強を目的とした京都料理研究会や若主人で作る芽生会も生まれ、切磋琢磨しながら将来に飛躍しようとしています。